撮影日記 2004年12月分 バックナンバーへ今週のスケジュールへTopPageへ
 

 2004.12.31(金) ガラス屋さん

 写真家を志すような人は、だいたいにおいて、やると決めたらすぐに取り掛からなければ気がすまない人が多い。
 僕も、その例外ではないし、身の回りの写真を撮る仲間たちのことを考えてみても、僕のセッカチさは、頭一つ分くらい抜け出しているような気がする。
 それは、恐らく性格なのでどうしようもないし、必要以上にその性格には逆らわないようにもしている。気が済むまでせっかちにやろうではないか!と開き直っている。
 そのセッカチさが、良い方向に働くこともあれば、逆に悪い方向に作用することもあるが、昨日は、僕の悪いところ丸出しの一日であった。
 
 ことの始まりは、水槽用のガラス蓋をガラス屋さんで切ってもらおうと考えたことだった。
 ちょうど今週は、魚やオタマジャクシの撮影に使用する水槽を新しいものに買い換えたり、設置する場所を変えたりと、作業をしていたのだ。
 そこで、自宅を出て事務所へ向かう行きがけに、近所のガラス屋さんをのぞいてみた。因みに、そのガラス屋さんは大相撲の大関・魁皇関のお父さんだったか、おじさんだったか・・・
 が、店は開いてはいるが、作業に出ているのだろうか?留守なので、待てない僕は、事務所へと車を走らせた。
 事務所は、自宅がある直方市から30分程度で北九州市にある。北九州にもガラス屋さんはたくさんあるだろうと、今度は電話帳の住所を見ながら、北九州のガラス屋さんに行ってみることにした。
 ところが年末だし、数件あたってみたが、どこもシャッターが下りている。電話帳で探しているのだから、電話をかければいいのだが、僕は電話が大嫌いで、電話するくらいなら、留守でもいいから行ってみた方がいい。
 そうこうする間に、何軒ガラス屋さんを回ったのだろうか?あっという間に2時間が経過して、とうとうガラスを切ることを諦めることにした。が、しかし、簡単に諦められず、
「よ〜し、最後に一軒」
 と行ってみたら、人がいるではないか。
「やった!報われた。」
 とお店に入ると、
「ごめんなさい・・・今から葬式なんですよ。」
 と、お断りされてしまった。
 あ〜時間が勿体ない。セッカチな僕にとって、お店が一斉に休みになる年末やお盆は、非常に過ごし難いのだ。

 今日は、親戚の子供たちがやってきた。僕のいとこの2家族で、小さな子供だけで7人である。
 一緒に昼食を食べに行って、ふと思い出した。そう言えば、子供をモデルに撮影しなければならないシーンがあった。
 食後にお願いして、撮らせてもらうことができた。
 子供がからんだ撮影は、本来であれば誰かにお願いして、お互いのスケジュールを調整して・・・と面倒なことが多いが、ついでに楽チンして撮ることができた。もちろん、僕の甥や姪であるから?よ〜く言うことを聞くに決まっているし、撮影は快調だ。
 年末も、悪いことばかりではないようだ。
 
 

 2004.12.30(木) 早く変態したい

 来シーズン出版される本の打ち合わせで、先日、東京から編集者がお越しになったが、僕の本以外では、ニホンザルの本を一冊見せてもらった。もう発売済みのものなのか、或いは準備中なのか忘れてしまったが、そのサルの本は社内で大絶賛だったのだそうだ。
 撮影を担当したのは女性の写真家だ。正〜直に言うと、写真の技術的にはプロレベルではないように僕には感じられた。が、
「やはり、女性は見る目が違うのと、サルという被写体が、感情移入しやすいからでしょうね。」
 と編集者は分析しておられた。そう、写真は技術だけではないし、むしろそうした要素の方が難しいのだ。
 僕は、技術という側面を非常に大切にしているが、それは、僕のような凡才肌の人間には、それが一番確実で簡単だからだ。もしも僕が天才肌の写真家だったなら、きっと、
「写真は技術じゃないよ。ハートだよ!」
 などと、声を大にして力説していることだろう。

 その編集者がおっしゃるように、確かに、僕が日頃撮影しているような小さな生き物の場合は、サルなどの獣と違って、感情移入が難しい。
 例えば、カエルの場合であれば、オタマジャクシから足が出て、手がはえて、変態をしてから上陸をするが、感情移入しようにも、人間と全然全く生き様が違うのだ。むしろ、その人との違い、つまり感情移入のしにくさこそが、小さな生き物の魅力であるとも言えるだろう。
 もしも、人間が変態をする生き物だったなら、カエルが変態をしても、特別に面白い現象だとは感じないのではなかろうか?逆に、カエルに感情などというものがあれば、カエルから見れば変態をしない人間はケッタイで、そのケッタイさがどこか気になる生き物に映る可能性もある。
「人間って、変態せずに大人になるんだってよ!」
「え〜、なんで???変態は大切だよね。人間って不思議な生き物だね。」
「俺なんて、そろそろ変態だよ。」
「そうなんだ!僕も早く変態したいな!」
 などといった会話が交わされるのかもしれないのだ。

 だからだろうか?獣を撮影する写真家には、昆虫など小さな生き物には全く興味がもてない人が少なくない。例えば、
「みんな自然を見ていない!獣たちがたくさん人間社会に向かってサインを出しているのに、全然それに気付こうとしない!」
 と獣の写真家が嘆いたしても、その写真家も、昆虫や小さな生き物のことになると、全く無知であるか、或いは表面的に興味を示すようなことを言っても、心の底までは響いていないように感じられることが多い。
 僕は、海外の自然写真家では、フランス・ランティングやマイケル・フォグデンが好きだが、2人とも、大きな生き物から小さな生き物まで、いつも同じ目で捉えているように感じられる点に共感を感じる。フランス・ランティングは、強引な撮影手法に?を感じる人も少なくないようだが、愛でるだけが、自然を見る手法ではないと、僕は思う。
 もちろん、愛でることも大切であることは、言うまでもない。

 

 2004.12.29(水) 新しいタイヤ

 先日、車のタイヤを冬用のものに取り替えた。今年の春に車が新しくなったばかりだが、以前に乗っていた車とはタイヤのサイズが異なるので、新しいタイヤを取り寄せなければならなかった。
 そして、整備工場でその新品のタイヤを取り付けてもらい、支払いをしようとして我が目を疑った。
「え!そんなに高いの???」
 僕の予測の、ほぼ倍の値段である。
 タイヤを取り寄せておいてもらうように注文する際には、工場のオバチャンが電話にでたので、
「特価で提供されているような安いものを」
 と依頼していたのだが・・・他にもタイヤのサイズやその他、幾つか伝えなければならないことがあり、オバチャンはあまりよく分かっていないような印象を受けたので、
「社長さんに伝えておいてください。」
 と僕はお願いした。その際に、「特価のものを」 という僕の依頼が伝わらなかったのだろう。
 しかし痛いな〜。
 デジカメ用のレンズを購入する予定にしていたお金をあてることになった。
 レンズは、新しいものを買ったらしばらく楽しくなれるが、タイヤは新しいものを取り付けても楽しくはなれないからな〜
 今年は、渓谷での雪や氷の撮影をたくさん予定している。そのために、昨年は、山陰〜山陽のいろいろな場所をロケハンして歩いた。
 積雪がある時期の渓谷周辺での運転は、なかなか危ないことである。だから、ちょっとでもいいタイヤをつけて置いた方が安全なんだよ!と言って聞かせているのだが・・・
 これからは、タイヤはタイヤ屋さんで注文をして取り付けることにしょう。

 さて、今日は、来シーズンの撮影のための下準備をした。生き物を撮影するためには、かなり前から準備が必要であることも珍しくない。
 今日の準備は、来年の5月頃に実を結ぶ予定だ。
 
 

 2004.12.27〜28(月〜火) ちょっと疲れが

 ここ数日、夜な夜な大分県に出かけては星空の撮影にチャレンジしている。が、あと一歩というところで、連日天気が崩れる。昨日もあと2時間程度で月が理想的な位置に・・・と思ったら、一気に雲が出た。
「やった!晴れてる。」
「あれれ・・・雲が出てきたぞ。」
 と、喜んだりがっかりしたり・・・ちょっと疲れを感じる。
 
 大分県は福岡県の隣県ではあるが、取材しにくい県だと、僕はよく感じる。
 まず、大分県の海沿いは非常に車が混むので移動に時間がかかる。これは大分県に限らず、広島県や岡山県などの瀬戸内海沿いに共通していえることだが、大分県〜宮崎県の海沿いの場合は、高速道路がないのが痛い。あたりには、東九州自動車道路の建設が予定されているが、なかなか実現されないのだ。
 僕は高速道路推進派ではない。が、そんな僕を含めて、高速道路推進派ではない多くの人が、
「あそこだけは、高速が早く欲しい!」
 とよく口にする。
 それから、これは最近ずいぶんましになったのだが、大分県は、車で寝泊りできる場所が少ない県であった。山沿いはいいが、別府あたりを中心にして、駐車場が夜間に閉鎖されてしまう場所が非常に多くて、なんだか閉鎖的なのだ。
 以前は車内泊をする場所を探して、ずいぶんウロウロしたものだ。
 大分県の別府あたりは、古くから観光で栄えた場所だが、観光地の駐車場を夜間に開放しておくと、変な溜まり場になったりして、地域の住民からの苦情などが多かったのではないか?と、僕は推測する。都会で撮影する際には、車内泊が出来る場所が見つからなくて、苦労させられることがよくあるが、大分県の海沿いは片田舎であるにも関わら、観光の歴史が古いからか、そうした点に関しては、非常に都会的なのだ。
 最近は、道の駅などがたくさんできたので、その点は楽になった。

 

 2004.12.26(日) 横着者

 ちょっと前に、
「菊地渓谷で夜景を撮影しようと思ってカメラをのぞき込んだら、夜の森はまっ暗で何も見えなかった。」
 と書いたことがある。
 僕はよく知らなかったのだが、夜景を撮影するためには半月〜満月くらいの月明かりが必要で、その日は月明かりが足りなかったようだ。
 今月は、そろそろ月が満ちているので、今週から来週にかけては夜景を撮影できるチャンスがあるが、ここ数日の九州は天気が悪い。先週〜先々週はあまりにいい天気が続くので、ちょうど月が満ちる頃に崩れそうだな〜と嫌な予感がしていたのだが・・・
 そんな予感だけは見事に的中する。

 さて、僕は、撮影は別にして、日常生活の面では究極の横着者である。
 例えば、撮影でどこかの駐車場で車内泊をして、翌朝同じ駐車場内のトイレに行くのに、「車で行くか!」と、20〜30メーターを運転してしまうことがある。夜寝る時は、公衆便所から離れた、人の出入りが少なくて空気がいい場所を選ぶが、翌朝になるとその距離が面倒に感じられるのだ。
 撮影現場に向かうのに歩かなければならないのは、全く苦ではないのだから、なぜ、そこまで変われるのか?自分でも実に不思議に感じられる。
 九州では滅多にそんな気にはならないが、北海道のような雪が積もっている場所にでかけると、特に、そうした傾向が顕著になる。
 また昨日は午前中に雨が降ったが、事務所で仕事をする日に雨が降ると、食事に出かけることが面倒に感じられることがある。そんな時は、インスタントラーメンでしのげば良さそうだが、横着者のくせに、横着な食べ物は受け付けない半端にグルメな体質だから、実に性質が悪い。
 せめてドライブスルーでいろいろな食べ物が買えたらな〜などと思う。ドライブスルーと言えば、ハンバーガーなどが定番だが、おでんやお惣菜が買えれば、僕は間違いなく常連客になることだろう。

 午前中に雨が降った昨日だが、夕方から急激に晴れて、福岡の夜空には見事な月が現れた。出かければ良かった!と後悔したが、昨日の天気予報で月が出ることを予測するのは不可能だっただろう。仕方がないか・・・
 今日は、これから大分県に向かって出発する。

 

 2004.12.24〜25(金〜土) 作家さん

 僕は、この日記の中に、撮影のノーハウを書くことがあるが、そのことに触れて、
「武田さんは、作家さんとしては珍しく手の内を明かしますね。手の内を明かすことに不安はないですか?」
 と、言われたことがある。
  その問いに対して何と答えたかは置いておき、その方は、僕のことを作家さんとおっしゃった。
 写真を生業にする人のことを指す言葉は、写真家・カメラマン・写真屋さん・・・・と、幾つかあるが、作家さんや写真家は、大変に相手に敬意を払った呼び方であり、カメラマンや写真屋などという言葉は、相手を軽く見る時に使われる言葉であることが多い。
 もちろん一般の人は、そうしたニュアンスの違いを知るはずもなく、僕が書いたのは、写真業界に通じている人の間での話である。
 ただ、僕は、基本的には技術者志向が強いタイプなので、作家であるよりも技術者でありたいと日頃考えるし、作家さんという言葉は、僕にはもてあましてしまうような気がして、そう呼ばれると恥ずかしくもある。
 
 さて、ここ数日は、ちょっとばかり調子があがらない。全く何もする気になれず、実際にほとんど何も仕事が進まない。
 そんな時は、だいたい撮影を難し〜く考えてしまっていることが多いので、初心にかえり、一技術者として無心になって写真を撮るように、自分に言って聞かせる。
「お前は、そもそもそんなにたいそうなことに取り組んでいるのかい?違うだろう?悩まなければならない作家ならともかく、お前は黙って手を動かせよ!」
 と、言い聞かせるのだ。
 今日は、水草に産み付けられた卵から、メダカの赤ちゃんがワッと湧いてきたいイメージを撮影してみた。
 
 

 2004.12.22〜23(水〜木) 肩の荷

 来年出版されるカタツムリの本の打ち合わせのために、東京から担当の編集者がお越しになった。すでに渡してある写真をレイアウトしたものをみての打ち合わせであったが、なかなかいい仕上がりである。
「うん、なかなかいいじゃない。」
「そうでしょう。」
 と、カメラマンと編集者が、本を作る本人同士で言い合っているのだから実に厚かましい。
 この本は、見開きの幅が60センチ・高さが25センチという大変に横長で大きくて、ちょっと見かけない縦横比の本なので、どんな仕上がりになるのか、写真を撮っていてもイマイチ想像ができず、「これでいいはずだけどな〜」と思いつつシャッターを押した写真が多かった。
 子供がカタツムリを見つめているシーンなどは、子供の顔が実物大に近くなる。その結果、かわいいはずの子供がものすごい迫力になってしまうかもしれないし、とにかく仕上がりのイメージが頭に浮かばない。
 撮影を終えても、「あれで良かったのかな・・・」と、まだ終わっていないような気持ちが後に残った。
 それがいい感じにまとまっていたのだから、今シーズン分の肩の荷がまとめて降りたような気にさせられた。

 

 2004.12.21(火) 新しいレンズ

 新しいレンズが到着した。今月に入ってから、「欲しい!」 と日記の中にも書いたニコンのAi AF Nikkor 28mm F1.4Dだ。
 中古でおよそ12万円。星の撮影のためだけに購入したレンズだ。このレンズを買うために、野鳥撮影用に使用してきた望遠レンズを一本手放すはめになった。
 今年はデジタルカメラを2台購入したが、デジカメは仕事の道具なので、計算できる僕の売り上げの中から、必要なものを計画的に購入することにしている。
 一方で、星の撮影のような遊びの撮影に使用する道具は、思いがけず写真が売れた時や、古い道具を処分したお金で買うことにしているのだ。
 15日に掲載した夕方の渓谷の画像や、12月分の今月の水辺に掲載した夜の滝の画像は、僕の方がびっくりさせられるくらいに大好評だったが、僕は最近、そうした遊びとして撮影する写真は楽しいな〜と感じているのだ。

(撮影機材の話・・・オタク道まっしぐら)
 さて、Ai AF Nikkor 28mm F1.4DをさっそくD70に取り付けて試してみた。大口径の広角レンズは、デジカメとは相性が悪いことが多いと言われるが、このレンズに関しては、一切そうした傾向は見られなかった。
 僕は、ニコンの28mmレンズを3本所有している。MFの28mmF2.8・MFの28mmF2・そして今回購入したAi AF Nikkor 28mm F1.4Dだ。
 今回は3本のレンズをF2.8で撮り比べたが、一見して、「あ、抜けがいいなぁ」と感じたのが、Ai AF Nikkor 28mm F1.4Dだ。
 また、F2.8で撮影した際のボケが一番すなおだったのも28mm F1.4で、次に良かったのが28mmf2.8だった。28mmf2は、やや2線ボケの傾向が強いように感じられた。
 発色の傾向は28mmf2だけがやや青っぽくて、他の2本のレンズとはちょっと違うように感じられた。
 また、暗部の描写性能に関してはAi AF Nikkor 28mm F1.4Dが一番良くて、次に28mmF2がよく写った。28mmのf2.8は影がかなり強くでて、暗部がつぶれてしまいがちな傾向にあった。
 
「レンズによる違いなんて分かるの?」
 という人もいて、確かに微妙なところではあるが、何か一枚写真を見せられて、
「これレンズなんだか分かる?」
 とたずねられても99%お手上げだが、同一条件下で撮り比べると、大抵何か描写の違いが見つかるものだ。

 

 2004.12.20(月) 便利な機能

 一昨日取り付けた外付けのハードディスクには、専用のバックアップソフトが付属していて、ハードディスクの正面にあるボタンを押すと、指定された場所にあるファイルを、ハードディスク内に勝手にバックアップしてくれる。
 例えば、僕のパソコン内には「武田晋一写真カタログ」というフォルダーがある。
 そのフォルダーを指定しておくと、ボタン1つで、「武田晋一写真カタログ」内のファイルを、外付けのハードディスクにバックアップする。毎日1度そのボタンを押せば、失いたくないファイルのバックアップが、常に、外付けのハードディスクに収められていることになる。
 その、「武田晋一写真カタログ」に、ある日新しい画像を幾つか付け加えたとする。そして、そのボタンを押すと、新しく付け加わった画像だけを選んでバックアップできる。以前から存在するファイルを、重ね書きで再度バックアップして、書き込みにやたらに時間がかかるような2度手間にならないので、なかなか便利だと感じた。

 

 2004.12.19(日) 星と夜景

 今月の水辺を更新しました。

(撮影機材の話・・・オタク道まっしぐら)
 12月分の今月の水辺は、夜の滝の画像を選んでみた。カメラを2台並べて、同時に、フィルムとデジタルとで撮影したが、夜の空の深みや星の先鋭度はフィルムが上、暗い滝の夜景は、デジタルの方がきれいに写った。
 それから、フィルムカメラに取り付けるレンズは、ニコンの28ミリf2とシグマの20ミリf1.8を試した。焦点距離が異なるので一概には言えないが、なぜ?と不思議になるくらいニコンがきれいに写った。シグマの方は、夜空が灰色になってしまったのに対して、ニコンの方は、僕の目に映った通りの深い藍色の空が写った。
 僕は、ニコンの20ミリf2.8とシグマの20ミリとで、昼間に同じ被写体を撮って比べたことがあるが、その時はシグマの20ミリの方がきれいに写ったので、一概にシグマの性能が悪いとも言えないのだが、星の撮影のような特殊な条件では、もしかしたら、ニコンの方が優れているのかもしれない。

 

 2004.12.18(土) 写真カタログ

 新しいハードディスクを1台導入することになった。今回は160Gのものを購入した。

 僕は撮影したデジタル画像を、撮影日ごとにまとめて、ハードディスクと2枚のDVDに保存している。通常、画像を取り扱う際には、読み込みが速くて扱いやすいハードディスクのデータを使用するが、ハードディスクは、故障をすると、すべてのデータが失われるという大きなダメージを受けるので、DVDにもバックアップをする。
 バックアップされた2枚のDVDのうちの1枚は、火災に備えて、事務所ではなく自宅に置く。それで、ほぼ、すべてのトラブルを防げるのではないなか?と、一応安心をしている。

 また、「これは使える!」と思われる画像は、別のハードディスクの中に、生き物の種類ごとに分類して保存する。これは言うならば武田晋一写真カタログみたいなもので、例えば、カタツムリというフォルダーの中には、僕が撮影した代表的なカタツムリの画像が一通り収められている。
 そして、来年は、その代表的な画像を納めたハードディスクを長期取材の際にも持ち歩き、貸し出しの依頼があれば、取材先で、車の中でデータをCDに焼き付けて送るための態勢を作りたいと準備中だ。
 武田晋一写真カタログの中には、できればデジタルカメラの画像だけでなく、フィルムをスキャナーでデジタル化したものも収めておきたいと思う。この冬の間に、まずは今回購入した160Gのハードディスクの中に、武田晋一写真カタログを充実させておきたい。

 今年は、写真貸し出しの際の僕の対応が速くて、それがありがたかった!と喜ばれる機会が大変に多かった。僕は地方に住んでいるというハンディーを背負っているので、それを文明の利器でカバーしようと様々な工夫を施してきたが、その結果、時に中央に住んでいる人よりも、僕の方が速くて便利だったのだと思う。
 そこを極めてやろう!と、思うのだ。
 今や、フィルムを貸し出す際でも、フィルムをスキャナーでデジタル化して、あらかじめメールで画像を見せておき、それで打ち合わせをすることが当たり前になった。
 打ち合わせの際は、メールで送信できる程度の小さな画像しか必要ないし、色の処理なども大まかでいいのだが、その機会に、フィルムをなるべくきれいにデジタル化しておき、それを持ち歩けば、その場は多少時間がかかるかもしれないが、目先のことにこだわらず長い目で見ると、間違いなく、時間の短縮になると僕は感じる。
 それくらい、写真の世界のデジタル化が急速に進んでいると、今年は痛感させられた。フィルムで撮影された写真でも、
「デジタルデータで構わないので、すぐに送ってください。」
と、依頼されることが多くなった。

 

 2004.12.16(木) セミの本

「9月分の今月の水辺の画像の描写が、とても好きなのです。」
 と、ちょっと前に感想のメールが届いた。
 その画像を解説すると、魚眼レンズという特殊なレンズを使用して撮影したものであり、魚眼レンズを使うと、被写体を大きく写しながら、同時に被写体の背景を広〜く写し込むことができる。一般的なレンズで撮影すると、被写体を大きく写せば、背景はあまり写らなくなるので、そこに魚眼レンズを使う理由がある。
 小動物を撮影する写真家の中には、
「広い背景の中に、主題がバ〜ンと力強く写る魚眼レンズの描写がたまらなく好き!」
 という人が少なからずいて、中には、魚眼レンズを使うために写真を撮っているのではないか?と思わざるを得ない程の、熱烈なファンも存在する。
 その魚眼レンズは、元々、生き物を撮影するような用途のレンズではないが、昆虫写真家の海野和男先生が、そうした使い方を編み出したことがきっかけになり、今では、小動物の撮影の定番のレンズになった。
 
 僕も、海野先生の、魚眼レンズを使用した写真にノックアウトされた者の1人だ。それに憧れて憧れて、学生生活を終える際に、
「僕も写真家になりたい!」
 と、海野先生に手紙を書いた。そして、その延長線上に、今の僕が存在する。
 だが、僕は、魚現レンズをあまり多用したことがない。
 多くの写真家が、海野先生の手法を取り入れ、自分なりにアレンジして、魚眼レンズで撮影した小動物の写真を発表しているが、どんなに自分流にアレンジしても、やはり海野先生の亜流だと、熱烈なファンだった僕は、つい感じてしまうからだ。
 また、これも一種のファン心理の表れだったのだろうが、まだ学生時代に、海野先生を真似て撮られた写真を目にした際に、
「チクショ〜、こいつ真似しやがって!」
 と、当時の僕は感じていたことも、魚眼レンズをあまり使わなかった理由の1つであるかもしれない。

 さて、今年の夏は、セミの撮影に明け暮れた。その際に撮影した写真は、来春、本になって発売されるが、セミの本は海野先生と共著だ。
 共著なのだから、僕は、時には、
「俺は海野和男だ!」
 と自分に自己暗示をかけてセミに向かいあった。海野和男なのだから、もちろん魚眼レンズもたくさん使用した。
 そのセミの本の原稿が昨晩届き、今日は、それを見直した。見直し作業も今回で3度目になり、もう、これといった修正点は見当たらない。

 

 2004.12.15(水) 水流

 僕は水中撮影の際には、人の手が加わらない、太古のままの自然の姿を撮りたいな〜と思う。
 水中は、陸上に比べて圧倒的に人工物が少なくて、日頃陸上で撮影する時のように人工物を避けてカメラを構える配慮は、ほとんど必要ない。それが水中の気持ちよさの1つであり、特権でもあるのだから、それを満喫しない手はないと、僕は感じるのだ。
 そのような目的を持っているのだから、出来れば人の影響がなるべく少ない場所に潜りたいし、そうすると、淡水では必然的に渓谷になる。
 時々、
「大昔、文明が生まれる前の川の水は、どんなにきれいだったのだろう?」
 と、想像をめぐらすことがあるが、その際に頭の中の浮かんだ澄んだ水のイメージを、写真で表現できればいいな〜と思う。
 それは、単なる想像の世界に過ぎないが、上流に民家がなく、周囲の森も比較的よく保たれている渓谷であれば、水中の風景に関して言うと、太古の状態とさほど違いがないのではないのか・・・と、勝手に想像をめぐらすことになる。
 
 ところが、そんなイメージを持ち、初めて渓谷に潜った際に、僕は、
「意外に渓谷の水中って、汚いな〜」
 と感じた。何が汚いのか、よくよく考えてみると、岩に付着したまま腐ってしまったコケが汚い。それが自然なことなのか、それとも、やはり何かが汚れているから、そうなるのかは、今のところ、僕には分からない。
 ただ、意外に澄みきっていなかったことに、がっかりさせられたことだけは事実であった。
 だがある時、僕は、信じられないくらい澄みきった渓谷の水中風景を目にすることになる。新しい場所にいってみたのではない。通いなれたいつもの場所で、そんな風景を目にしたのだった。
 その日は、ちょうど大雨の直後で、大水が出た際の水流で、水中の岩という岩が、まるでやすりで削ったかのように、見事に磨き上げられていた。
 殺風景なほどに澄みきった風景だった。
 
 さて、淵に降り積もった落ち葉のじゅうたんを水中撮影するために、菊地渓谷へと出かけてみたが、先日の大雨で落ち葉は見事に流されていた。
 大水には、川の大掃除をする役割があるようだ。
 そこで、水中撮影の変わりに、夕方の渓谷を撮影して帰ることにした。

 

 2004.12.14(火) 感激
 
 昨日13日は、日本自然科学写真協会の写真展、SSP展(宮崎展)の展示作業のため、宮崎市へと出かけた。宮崎市は、高速道を走っても福岡からは5時間かかり、同じ九州と言っても、なかなか遠い。
 SSP展は、東京〜大阪〜福岡他、全国数カ所の会場で開催されるが、宮崎展は今回がはじめての開催であり、また九州の会員が力を合わせ、自分達で誘致した経緯もあり、ちゃんと責任を果たさなければならないのだ。
 初めての会場なので、思いがけないことがたくさんあった。そして、そのすべてが、いい意味での思いがけなさであった。
 一言でいうと、宮崎県総合博物館の担当者である末吉さんの熱心な取り組みによるものだった。写真展のために、独自のチラシを博物館側で作ってもらうことができ、また、そうしたチラシの配布先のリストを見て、公民館〜銀行〜学校〜カメラ屋さんまで、唖然とさせられるくらい多くの箇所に案内のチラシを配ってもらえることが分かった。それから、新聞折り込みで5万枚、一般の家庭へと配布してもらえることが分かった。
 そして、アナグマのお尻が写った写真の前には、博物館所蔵のアナグマの剥製を置くなど、博物館の資料も同時に生かしたいと、展示に関する申し出もあった。
「写真展の際に、そんなことをさせてもらうことは可能でしょうか・・・」
 と、ちょっと遠慮がちな申し出であったが、大歓迎である。
 
 僕は正直に言うと、博物館側に対して、そのような期待をしてはいなかった。一般的に言うと、公共機関は、やはり、何か情熱が1つ伝わらないお役所仕事が多いからだ。
 ところが、宮崎県総合博物館の取り組みが、あまりに熱心であるから、何が、本来お役所的である場所をそこまで熱心にさせることができるのか、その理由を探りたくなった。
 そして、1つの事実を思い出した。
 宮崎県総合博物館の学芸員は、基本的に学校の先生の中の志願者から選ばれるのだそうだ。末吉さんも、元々は理科の教員である。したがって、ただ何かを研究するだけでなく、それを見せる、伝えるという意識が高いのではないだろうか?
 そこに、子供達とたくさん接した経験を持つ人の持ち味を、僕は感じた。
 写真家は、いつもアイディアを出す側であり、人のアイディアに感激させられる機会は、日頃少ない。が、昨日は、末吉さんのアイディアにいろいろと感激させられた一日であった。
 そうした感激って、いいな〜
 
 

 2004.12.12(日) 山のような荷物
 
 僕が所属する日本自然科学写真協会の写真展の展示作業のため、明日から数日間、宮崎に出かける。
 帰りに熊本県の菊地渓谷で、水中撮影をして帰ろうと、水中用の荷物を積み込んでみたのだが、なかなか車内に上手く収まらない。荷物を車の中にどう収めるかは、日頃から決めているのだが、今年になって車が変わったため、古い車の時の感覚で収納しようと思ったら、上手く収まらなかったのだ。
 とにかく、水中撮影の機材の多さは半端ではない。また、デリケートに扱わなければならない道具も多い。空気の高圧ボンベなど、下手をすると恐ろしい事故を引き起こしかねない道具も積まなければならない。
 冬の渓谷に潜るなんて、寒さが大変だろう!と感じる人は多いようだが、何が大変かというと、その荷物を渓谷の岸辺まで運ぶことが大変なのだ。車と渓谷とを3往復くらいしなければならないのだ。足場がいい場所なら、それもたいしたことはないだろうが、渓谷のような足場が悪い場所で、巨大なレンズの水中カメラや、空気ボンベや・・・これだけは、何度やっても楽しくない作業だ。
 渓谷での水中撮影自体は、別格だ。まず、そんな経験を持つ人間は、日本に数えるくらいしかいないだろう。
 サケが遡上するような川で、サケの撮影をする程度であれば、やっている人がいるが、渓谷の水中風景を撮る目的で潜ったことがある人は、10人いないのではないだろうか?
 その普通ではなさがいいのだ。

 

 2004.12.10(金) どうしようかな?
 
 12月2日に、「欲しいがとても買えない!」と書いたレンズ・Ai AF Nikkor 28mm F1.4Dを、「やっぱり買おうかな・・・」 と、今朝突然に思い立った。新品は、店頭で約17万円もするので論外として、中古なら10万円くらいのものが見つかるのではないか?と、そんな気になったのだ。
 肝心なお金はどうしよう?と、いろいろと考えた結果、今もっている野鳥撮影用のレンズ・ニコンのAi Nikkor 500mm F4Pを下取りに出すことにした。カメラの世界では、中古の道具を流通させるしくみが発達しているのだ。Ai Nikkor 500mm F4Pは、定価で64万円強もするレンズであり、それを売れば、それなりの足しになるだろう。その代わりになる新しいレンズを9月に買ったばかりなので、不要になっていたのだ。
 しかし、幾つの理由で、売らずに手元に置いておきたい気持ちもあった。その理由は、マニアックな世界になってしまうので書かずにおくが、おかげで今日は、手持ちのレンズを売って別のレンズを買うべきか、やめるべきか、実に実に長い時間迷った。
 そして、いい案が思いついた。
 まず、手持ちのお金で、新しいレンズを先に買おうと。それでしばらく生活をして、もしも貯金が底をつきそうになったなら、その時にAi Nikkor 500mm F4Pを売ればいいじゃないかと。
 僕は、「よし、新しいものを買おう。」と決意した。
 そこで、さっそく、インターネットで、中古のレンズをたくさん在庫しているお店を一軒一軒調べてみると、なんと、Ai AF Nikkor 28mm F1.4Dを在庫しているお店が一軒しか見当たらない。あまり、数が出回っていないレンズなのだ。
 その一軒も、値段が12万円とあり、高くはないが、安くもない。できれば、同じレンズを在庫しているお店が何軒かあって、中古なので、値段と状態とを考慮した上で、購入を決めたかった。
 また、中古をインターネットで購入するのは、多少の不安も付きまとうので、やはり過去に買ったことがあるお店で、安心して買いたい。中には、中古の商品の場合は、一点一点画像を掲載して、細かく状態を教えてくれるお店もあるので、そんなお店で買いたいと思った。
「やっぱり、止めようかな〜。」
 と、心変わりしつつあるのだ。
 迷うのは、とにかく疲れる。お金が山ほどあればな〜。
 
 

 2004.12.9(木) 勉強嫌い
 
「今日は、ウイグルの人と、生まれて初めて話したよ。」
 と、父が昨日嬉しそうに言う。
 ウイグルとは、辞書によると、『唐から宋・元にかけてモンゴル・甘粛・新疆方面に活動したトルコ系民族』と説明があるが、どうもモンゴルから日本にやってきた留学生と話をしたようだった。
 そのウイグル人は、驚くほど日本語がスムーズだったらしい。父の説明によるご、ウイグルの人が使うトルコ系の言葉は、日本語と単語の並べ方とよく似ているらしくて、だからきっと日本語を短期間でマスターできたのだ!と。
 それが父にとっては、とても面白かったようだ。
 僕は、そもそも勉強が好きではないので、その何が面白いのか?イマイチ理解に苦しむわけだが、1つだけ分かったことがある。子供の頃、僕は、
「勉強していない。努力が足りない。」
 と、よく父に怒られたが、努力が足りなかったのではなくて、お勉強が性に合わなかっただけであろうと。もしも、父のように、言語などに興味が持てれば、努力などという次元の話ではなくて、学校の英語の時間も、多少は楽しくなるだろうな〜と、感じるのだ。
 僕は、本を読んだり、事務的な作業を大変に苦手にしている。今日も、昨日の続きでフィルムの整理をしているのだが、これが実に辛いのだ。
 ふと、学生時代の試験勉強が思い出される。
「よ〜し、ここまで憶えたら休憩だ。」
 と、目標を定めるが、その目標は例えば英単語であれば、せいぜい10語程度の、決して無理のない量である。
 そして、その少量の単語を覚えると、ゴロ〜ンとベッドに横たわり漫画を読む。
 しばらくそうして休むと、また
「よし!ここまで憶えたら休憩だ。」
 と、それを繰り返そうとするのだが、2〜3度繰り返せば、深い深い眠りにおちるのに十分であった。
 フィルムを整理していても、なんだかそれに近い状況に陥ってしまうのだ。もちろん、今の僕は、学生時代よりも多少は修行を積んでいるわけだから、幾分ましになっているが・・・
 では、何が好きか?と言うと、作ったり、写真を撮ったり、生き物を世話したり、僕は作業が好きだ。

 

 2004.12.8(水) 反響
 
 昨日紹介したナメクジは、このHPに過去に寄せられた感想の中でも、一番反響が大きかったように思う。そうした大きな反響があった時に、
「これから何を、どんな風に撮って行こうかな?」
 と、いかに自分の特性を出していくのかを、僕は考える。
 具体的には、僕の写真は、全体としてみた時に、とても同じ人が撮ったとは思えないような、いろいろなタイプの写真が混在しているのが特徴の1つだと思うが、それを、どう整理していくのかを考えるのだ。
 自分なりに取捨選択をして、何か一点に絞って撮影していけば、写真をちらっと見ただけで、
「あ、武田だ。」
 と、分かってもらうことができるかもしれない。
 例えば、昨日のナメクジのようなパターンで、いろいろな嫌われ者を撮り続けると、嫌われ者が出来てきただけで、
「武田だ。間違いない!
 となることだろう。きれいな被写体を撮る人はたくさんいるのだが、嫌われ者を撮る人は少ないので、これは手っ取り早い方法であろう。また、生き物の性質をじっくりと撮影するなどという行為は、そもそもどこか変質者的な要素を含んでいるように思う。
 そこに、思いっきりスポットライトをあてるのは、面白そうでもある。
 
 だが、今のままでもいいのかな?とも、いつも同時に考える。正確に言うと、今のままというよりは、今撮っているものを、ひとまとめに出来るくらい大きな世界を築き上げることを目指すのだ。
 ついさっき、「生き物の性質をじっくりと撮影するなどという行為は、そもそもどこか変質者的な要素を含んでいる」と書いたばかりだが、逆に、自然の中で、非常に情緒的な気持ちで安らぎつつ写真を撮ることもあるのだから、そんな色々な自分があってもいいのでは?とも、感じられるのだ。

 さて、今日は朝から死に物狂いでフィルム整理だ。2004年8月分のフィルムまで、整理を終えることができた。
 実は、最近写真の貸し出しを依頼されるのが、怖くなっている。本来は、大歓迎すべきことなのだが、いざ写真を貸し出そうとすると、自分で撮った記憶がある写真がすんなりと出てこないのだ。
 そんなことが続くので、
「また出てこないのだろうな・・・」
 と、悪いイメージが染み付きつつあるのだ。今年の間にちゃんと整理をして、改善しなければならない。
 
 

 2004.12.7(火) 気持ち悪い生き物
 
 以前、昆虫写真家の海野和男先生の事務所に立ち寄った際に、数匹のゴキブリが同時に出没したことがあった。まず、海野先生の名誉のために書いておくが、不潔にしているのではない。
「お前が、とんでもない風評被害をばら撒いている!」
 と、あとで僕が指導されないように、これは、誤解しないで欲しい。
 最初に、小さなゴキブリがでてきたのだが、海野先生いわく、流し台の付近の小さな隙間を指差して、
「この穴の中に隠れていているんだよ!」
 と。すると、今度はもうちょっと大きな別のゴキブリが出没した。
「あ、違うのがいる!」 
 さらに今度は、本当に大きくて、見事なゴキブリが、どこか別の場所からあらわれた。
「今年はゴキブリの本を作るんだ」
 と海野先生が、コンパクトタイプのデジタルカメラで、その写真を撮り始めたのだった。
 僕にはそのゴキブリが、日頃僕が見ているものとは、ちょっと違う生き物のように感じられた。いつも僕が見るゴキブリは、急に電気をつけられたりして慌てて逃げる後姿である。コソコソコソコソとすばやく動くその姿は、非常に気持ちが悪くて、恐怖さえ感じる。
 ところが、海野先生の事務所でみたゴキブリは、食べ物を探しているのだろうか?コソ、コソ、コソ、コソと、比較的ゆっくり歩き、恐怖までは感じない。
 やはり長年昆虫を撮影してきたベテランは、近づくのが上手い。ゴキブリは警戒をしないし、警戒をしていない相手は、そうでない相手ほどは気持ち悪くない。
「思っていたほども、ゴキブリは気持ち悪くはないな・・・」
 と、やはり冷静に物事を見ることの大切さを感じたのであった。
 しかし、昆虫写真家とは、なんと妙な人種であろうか?ゴキブリの本を作る際には、ゴキブリが出没することが嬉しいのだから。
 僕は、カメラを持つと、対象をしっかり見ようとするので比較的冷静になれる。今年は、生まれて初めて、ナメクジを真剣に撮影したが、撮影を終えると、撮影前ほどもナメクジが気持ち悪くなくなる。
 そこで、昨日は、丸まっているナメクジが、ビヨ〜ンと伸びて歩き出す様子を撮影して、その画像を淡水記の中にUPしてみた。

 かといって、気持ち悪さは完全に克服できるものではない。気持ち悪いものはやはり気持ち悪い。
 後日、どこかで海野先生が、
「ゴキブリは気持ち悪いので好きではない。」
 と書いておられるのを読んで、
「な〜んだ。海野先生でも気持ち悪く感じることがあるんだ!」
 と、妙に安心させられたのだった。海野先生は、その中で、
「ゴキブリの動きは人間にはない動きだから、気持ち悪いのでは?」 
 と、分析しておられた。気持ち悪いという自分の直感とは別に、なぜ気持ち悪く感じられるのか、その理由を考えて、理解できる部分は理解しようとする姿勢に、勉強させられるものがあった。

 淡水記を更新しました。

 

 2004.12.6(月) 本当に食べるの?
「生まれたばかりのカタツムリの赤ちゃんが、草を食べるシーンを撮影してもらえますか?」
 と、先月依頼があった。
 だが実は、僕は、今までに小さなカタツムリが草を食べているシーンを見たことがない。食べないことはないと思うが、野外で小さなカタツムリの赤ちゃんをたくさん見かける時は、いつも、雨の日に、枯れ葉を食べている姿なのだ。
 そこで、今まで観察した結果を正直に話してみたら、
「そうですか。それでは枯葉を食べる様子を撮影してください。」
 と返答があった。
 野外で採集したカタツムリが緑の糞をすることがある。これは、カタツムリが緑色の葉っぱを食べている証拠だ。
 ところが、例えば、アジサイの葉っぱの上にカタツムリを止まらせておいても、カタツムリはその葉を食べないし、緑の葉っぱの場合、何の葉を食べるのかに好みがあるのだと思う。

 葉っぱの上にカタツムリを止まらせれば、実際に食べてなくても、上の画像のように食べているようには見える。また、もしも本当にその葉っぱをカタツムリが食べるのなら、食べているように見える写真を、食べているとして掲載しても、ギリギリ許される範囲であろう。
 だが、実際には食べない種類の葉っぱの上のカタツムリを、食べていると紹介するのは、許されないだろう。

 さて、今日はコケの上にカタツムリを止まらせて撮影してみた。
「生まれたばかりのカタツムリの赤ちゃんが、草を食べるシーンを撮影してもらえますか?」
 と依頼してこられた方は、恐らくこんなシーンをイメージしておられたのだろう。開き直れば、こうして撮影した写真を売りつけることも出来たわけだ。
 今日は、これからこのコケを、色々なサイズのカタツムリに食べさせてみて、食べるかどうかを確認してみようと思う。食べれば、来シーズンからは、緑の葉っぱを食べる赤ちゃんとして、この写真を提供することができる。
 また、食べなければ、コケの上を散歩する赤ちゃんとして、ついでに撮影した下の画像を何かの機会に使えばいい。

 散歩しているというイメージなら、下の画像のように背景はすっきりしていた方が感じがでるし、コケの葉っぱを食べているというイメージなら、上の画像のように、多少ゴチャゴチャしていた方が、感じが出る。

(撮影機材の話・・・オタク道まっしぐら)
 柔らかい光で撮影した際の、ペンタックスのFA100ミリf2.8マクロレンズの描写は、本当に素晴らしいと思う。気に入ったレンズを手にすると、撮影が楽しい。
 欠点は、正面からストロボを光らせたりするような撮影の際は、眠たい写真になってしまうことだ。だから、好きなレンズだが、用途は限定されてしまう。
 
   

 2004.12.5(日) 雨で
 
 本来の予定では、これから菊地渓谷へと出かけて、水中に貯まった落ち葉を撮影する予定だったのだが、昨日降った雨の量を考えると、どう考えても不可能であり、数日延期することにした。
 雨が降ったことが吉と出るか、凶と出るか、現場を見なければ分からないが、雨で増水した結果、落ち葉が多く流れ着いているかもしれないし、逆に、貯まっていた落ち葉が流されてしまったかもしれない。

 今回の撮影は、水中撮影だ。
 まるで、渓谷に遊びに来た人が降り積もった落ち葉の上を歩くかのように、水の中に潜り、水中に降り積もった落ち葉の上を、水中カメラをもって散歩するのだ。
 だが、この撮影にはそれなりに危険も付きまとうので、体調その他、十分に注意を払わなければならない。撮影のために体に10キロ以上のおもりを背負って潜るので、ヤバイと思って浮上しようとしても、おもりを捨てる時間が必要になるし、その際には冷静沈着でなければならない。
 どんな場合に、そんな危険性があるのか?
 僕は水中撮影の際には、空気のボンベを背負って潜るが、川は流れがあるので、流れにのまれてしまい、パニックになり、水をのんでしまった時。それから、水の冷たさで足がつるなどのアクシデントがおきた時。咳が出て思わずむせてしまった時・・・、いろいろなケースが考えられる。
 そうした撮影の時だけは、ついでに他も撮ろうなどとは、絶対に考えないことにしている。
 冬場の渓谷での水中撮影は半端ではない体力を消耗するので、撮影可能な時間は、休憩時間も含めて、せいぜい1時間くらいが限度だ。その日は、その一時間だけカメラを持ち、あとは何もしないつもりで出かけるのだ。
 
 

 2004.12.4(土) 今度はフィルムで
 
 11月26日に、デジカメで300枚シャッターを押して、やっと一枚撮れたシーンがあると書いたが、昨日〜今日にかけては、そのシーンをフィルムで撮影しようと試みている。前回の日記には、「フィルムでは効率が悪すぎて、ほぼ撮影不可能」などと書いたわけだが、やっぱりやれるのではないか?という気になったのだ。
 準備したフィルムは3本以内(100枚強)だ。
 前回は300枚だったので、何か工夫を施さなければ、多分納得できるレベルの写真は撮れないだろうし、もちろん、新しい策を講じた上での挑戦だ。
 なぜまた?と考えてみると、昨日、来年4月に出版されるカタツムリの本の見本が届いた。カタツムリの本は9割がフィルム、残りがデジタルという感じだが、やはりフィルムのクオリティーは凄いと感じた。カタツムリの形だけでなく、ヌメヌメまでが表現できている感じがする。
 もちろんデジタルが有利なシーンもあるわけだが、今の段階では上手く両者を使い分けるのがいいと、僕は感じる。僕は、やっぱり形だけでなく、質感まで写って欲しいと思うのだ。

 最近、自分の性格をよく把握しておくことの大切さを感じる。
 例えば、僕の場合、一度気になりだしたことが、時間の経過に伴って忘れ去られることは滅多にない。むしろ、ドンドン気になって、心の中で大きくなる傾向になる。
 だから、「こう撮ったらいいんじゃない?」などと、頭の中に案が浮かぼうものなら最後。多少お金がかかろうが、時間がかかろうが、労力がかかろうが、それを試さなければ抑えられなくなる。
 以前は、そうした自分をよく理解できていなかったので、一生懸命、忘れよう忘れようとしたものだ。撮影に出かけた際に、あそこまで足を伸ばしてみようか?いや、もう帰ろうか?と、同じ道を何度も行ったり来たりすることも珍しくなかったが、最近は、気になることは迷わずやってみることにしている。僕の場合、それが一番気が休まるようだ。

 

 2004.12.3(金) 迷いの原因は何?
 
「気に入った星の写真が撮れた。」
 と昨日書いたが、実はまだフィルムを現像していない。気に入ったのは、同時に撮影したデジカメの画像の方だ。デジカメとフィルムカメラとを並べて、同じように写るように二台を設定して、並行して撮影をしておいたのだ。
 デジタルとフィルムとの描写の違いは存在するが、大体同じように写るようだ。
 
 さて、そのフィルムを月曜日に現像する予定だ。
 フィルムは現像の段階で指示を出せば、多少だが、仕上がってくる写真の明るさを調節できる。例えば、
「しまった、暗く撮りすぎてしまった・・・」
 と撮影したあとに後悔したような時は、
「増感してください。」
 と現像時にお願いすれば、明るくなるように現像してもらえる。
 そうした技が存在するので、同じようなシーンをたくさん撮影した時は、まずフィルムを1本だけ現像して、残りのフィルムの現像の具合は、その結果を見て決めることもある。
 そして今回は、同じ条件でデジタルで撮影しておいたので、デジカメの画像を、事務所のパソコンで穴があくほど眺めてみた。そこから推測できることは、特に現像時に指示を出さなくても、ちゃんと撮れているはずという結論だ。
 だが、
「少し暗めに現像しようかな」
 などと迷いも生じる。
 その迷いの原因は2つあり、1つは、星を撮り慣れていないことからくる自信のなさであり、あとの1つは、気に入った写真が撮れているはずだという期待だ。
 出来れば、仕事ではそんな迷いを味わいたくないが、星の撮影は遊びなので、迷うことが心地良い。その迷いの行き着く先は、
「あ〜良かった。撮れてる。」
 ではなくて、
「うそ〜写ってる!」
 という、写真を始めたばかりの頃に感じていた喜びに近い。そうした撮影を、もっと大切にしようかな・・・と、最近僕は考えているのだ。
 
 

 2004.12.2(木) 欲しいものがある
 
 昨日、星を撮影してみたら、思いの他、イメージ通りに写っているので驚いた。
 僕は、仮に、プロの写真家が撮影した自然写真を評価しなければならない機会があるなら、雑な写真は好きではないが、美しすぎる写真も、あまり好きではない。自然写真は、美術まではいかない方がいいというのが、僕の好みだ。
 そうした僕の好みに合う星の写真が撮れていたのだ。
 突然に、星を撮るために専用のレンズが欲しくなった。細かいことを書くとオタク道まっしぐらになってしまいそうだが、ニコンのAi AF Nikkor 28mm F1.4Dが欲しい。だが、このレンズは高価であり、中古でもおよそ10万円する。星の写真がバカスカと売れるとは思えないので、コストを考えるととても見合わないレンズである。

 さて、今年はフィルムを貸し出すのではなくて、デジタルデータを貸し出す機会が圧倒的に多かった。写真の世界は現在デジタル化しつつあるが、これほどの速さでデジタル化するとは、僕は思ってもみなかった。
 来年は、一通りのデジタルデータをハードディスクに整理して、取材中にも持ち歩くことにしようと考えている。そして、写真の依頼があった際には、車の中でデジタルデータをCDに焼付け、それを出版社に送ればいい。
「今取材に出ているから・・・」
 などと、相手に自分の帰宅を待ってもらったり、お断りする機会は、ずっと少なくなることだろう。
 そのためには、持ち運び可能なハードディスクを購入して、CDへと焼付け可能なノートパソコンを買わなければならない。現在僕が使用中のノートパソコンは、ウインドウズ98搭載の、CDも焼けない古い機種なのだ。
 この出費に関しては、間違いなく、すぐに元が取れるだろうし、早く導入すればするほど、長い目で見れば、徳をするだろうと思う。

 持ち運び可能なハードディスクやパソコンと、星の撮影用のレンズと、どちらが欲しいか?と問われれば、断然レンズが欲しい。最近は、欲しいものが買えず、技術革新についていくために必要なものを買わなければならない機会が多い。  

 

 2004.12.1(水) 安心院へ
 
 厳密に言うと今朝になるのだが、昨晩は突然に思い立ち、大分県の安心院町にでかけることにした。安心院は、あじむと呼ぶ。あじむいんではない。
 北九州を出発して目的地に到着したのはAMの2時頃で、それから星を撮影して、今朝そろそろ空が明るくなるかな〜という頃に帰宅をした。
 今回撮影した写真は、12月分の今月の水辺の中で紹介したい。
 さすがに、今日はその疲れで、カメラを持つ気力が湧かない。もともとフィルム整理を予定していたので、うってつけだ。
 丸一日必死にフィルムを整理すると、僕の場合、大体一ヶ月分のフィルムを整理することができる。今日は、6月分のフィルムの整理を終えた。フィルムの整理は、まだ6月なのだ。
 自分のお気に入りの写真を抜き出すだけなら、1年分のフィルム整理でも、あっという間に終わるのだが・・・
「え!お気に入りの写真を選び出すんじゃないの?」
 と不思議に感じる方もおられるだろうが、自分で心の底から納得できる写真など一年に数枚程度であり、残りは、納得はできないが、まあ、印刷物には十分に使えるレベルなので、整理しておこうという感じになる。
 また、不思議なことに、中には、僕自身が全然納得ができない写真でも、よく売れる写真がある。
 そう言えば、昔ある方に写真を見てもらった際に、僕がゴミ箱に捨てるつもりで積んでおいた写真の中の一枚を指して、
「この写真いいじゃない!これ使わせてよ。」
 と言われたことがあった。
「この人センスない・・・」
 と思いつつ、お金の魔力に負けて、その写真を貸し出した。
 ところが!である。その後も、その写真を気に入る人が多くて、よく売れるのだ。同じ写真をいったい何度使っただろう?と、思い出せないくらいのヒット作になった。
 今でもその写真を、僕自身は気に入っていない。写真が印刷物の中に使用され、撮影・武田晋一などと名前が載ろうものなら、正直に言うと、恥ずかしくさえ感じる。
 また、そうした、自分では気に入らないが間違いなく売れる写真が、次第に分かるようになってきた。そんな写真が撮れてしまった時は、フィルムを整理する時に長い時間迷う。
 果たしてこの写真を整理しておくべきか?あるいは、誇りにかけて、捨ててしまうべきか?

(プレゼント企画)
 昨晩のプレゼント企画に、たくさんの応募、ありがとうございました。買ったばかりのプリンターを動かすことが楽しくて、山のように試し刷りをしましたが、それらのプリントが無駄にならずにすみそうです。
 
  
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自然写真家・武田晋一のHP 「水の贈り物」 毎日の撮影を紹介する撮影日記 2004年12月分


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